オープンソース(2)

6月5日にオープンソースについて書いたのは、むしろ最近個人的に気になっているシニシズムというものについて書きたかったからで、内容としてもそちらが中心になっているが、ここであらためて今回の件に対するぼくの考え方を書いておく。

ひとつには、言葉の定義の問題はあまり本質的な問題ではないと思う。確かにOSDというものがある以上、すべての人が「オープンソース」という単語をOSDの意味で使うことが、無駄な誤解をさける意味で望ましい。だが、不幸にしてそれ以外の「俺定義」がはびこっているという現状があるわけで、それは「俺定義」を使う人の問題とはいいきれず、以下の2つの理由があると思う。

  • 言葉は生き物なので、「オープンソース」という言葉が広く使われれば使われるほど、不可避的に多様な意味を持ち始める。つまり「オープンソース」というネーミングが成功しすぎたということ。
  • オープンソース」という平易な語と厳密なOSDの間の乖離。これはネーミングの失敗ともいえる。

というわけで、少なくとも「俺定義」を使っている人を「さらす」という発想はまちがっていて、純粋にOSDを広めることの方に軸足をおくべきだと思う。また、OSDの内容が大事なのであってそれが「オープンソース」と呼ばれるかどうかは二次的な問題だ。場合によっては「オープンソース」という語の多様性を許容して、別の言葉、たとえば「OSDオープンソース」を使うというような戦略があってもいい。

もうひとつは、「正しいからOSDの定義を使いなさい」という啓蒙のやり方はあまり効率がよくなく、逆に反感を生むこともあるということ。むしろ、OSDを使えばこんないいことがありますよという利点を強調した方がいい。

まとめると、

  • 「俺定義」を使う人を非難・嘲笑するのはまちがい
  • オープンソース」という言葉にこだわりすぎてはいけない
  • 正しさでなく利点を強調すべき