オープンソース〜教条主義とシニシズム

経済産業省の久米さんという方がLinuxWorldの講演で日本発のオープンソースが42件しかないと発言したことをきっかけに、「オープンソースの定義は?」という話が持ち上がり、Rubyの作者のまつもとさんなどは、「オープンソース」という言葉にはきちんとした定義(http://www.opensource.gr.jp/osd/osd-japanese.html)(OSD)があることを指摘して、それ以外の使い方を俺定義(http://www.rubyist.net/~matz/?date=20030603#p02)と呼び、やめるよう啓蒙しようとしている。

これに対し、そういう行為に教条主義的なもの(あるいは宗教的非寛容)を感じとって反感を持つ人たちもいて、たとえばをゐなりさんのところの有名人の日記(http://woinary.pobox.ne.jp/ndiary/200306a.html#d03_t5)がわかりやすいと思う。簡単にまとめると、アカデミックに定められた定義があるとしても、(崇高な理想の理解できない庶民からなる)世の中的には、無数にある俺定義の一つにすぎないということだ。

特権的な定義がありえないというのは、「大きな物語」の失墜と対応しており、「崇高な理想の理解できない庶民」というのは、それぞれの趣味の共同体に閉じこもって「動物化」してしまった人に対応していて、実は「有名人の日記」に書かれていることは、東浩紀動物化するポストモダン』が示す現代の状況とぴったり合致している。そういう意味で、OSDが俺定義のひとつにすぎないというのは現状分析として正しいと思う。

ただ、ぼくは、こういった教条主義的なものに対する批判の中にシニシズムを感じとって、その部分には共感できないなとも思ってしまうのだ。シニシズムにはいろいろな定義があって、それを比較してみるのも面白いが、ここでは建前的なものに冷笑的な態度という意味で使う。つまり、すでに世の中ではすべての価値が相対化してしまっているのに、そのことに気がつかないか気がついていないふりをして、特定の建前(=理想)に固執してそれに絶対的な価値があると思い込んでいる人に対し反感を持って、鼻で笑うような態度だ。

もちろん、価値の相対化は否定しようのない「事実」なので、シニシズム的な態度はとても自然なものだといえる。ただ、その態度の背後には、建前の裏側には建前でないピュアなものがあるという無意識的な前提があるような気がする。それで下手な書割のような建前をあざ笑うのだ。ぼくなどは、建前でないピュアなものも笑い飛ばさなきゃ、片手落ちじゃないかと思ってしまって、価値の相対化は受け入れて、教条主義に対する反感も共有するけれども、どうしてもシニシストになりきれず違和感をもってしまう。

話が完全にオープンソースから離れて一般論になってしまったので、強引にもとにもどすと、さきほどの「有名人の日記」の中にもやはり建前でないピュアなものがでてきて、それは、「庶民」とか「世の中」、つまりオープンソースという運動からある程度以上の距離を置いている圧倒的大多数の人ということになると思う。彼らに定義を押しつけることは無意味だし、そもそも不可能だということには全面的に同意しつつも、彼らが自分の物差しの範囲だけで解釈するという現状も、何らかの批判の対象にして、その現状をどう変えていくかという視点ももちたいと思うのだ。もちろん、それはとても困難なことで、だからこそこれだけシニシズムというものが蔓延しているということもいえるのだが。