無垢ということ(2)

日本で政治的なものがきらわれていることを示す例をいくつかあげる。たとえば、窪塚洋介が自身のホームページでイラク戦争に関してちょっと過激なことを書いたのがファンの抗議を受けて削除されたことは記憶に新しい。選挙に関しては、党でなく人で選ぶという一種のテーゼがあり、そして最近では無党派ブームというのがある。さらには、特定のメディアの編集方針に対して「偏向」という言葉を使って非難する人たちがいること。自分の政治的立場とそのメディアの政治的立場が異なるだけなのに、それを自分はどの政治的立場にも属さない中立なものと擬して、しかも暗に自分が多数派であることをにおわせるような、とてもいやな表現だと思う。

政治的になると論争は避けられないので、これらはひょっとすると、争いをさけ和を尊ぶといわれる「国民性」のせいかもしれない。というより、日本ではまともな議論が成立せず結局は人格攻撃になってしまって場の雰囲気が乱れることが多いのをみんな経験的に知っているといった方がいいかもしれない。

また、論争に参加するものより、それらを調停する立場のものの方が尊敬を集められるということがいえる。日本では権威はこういう調停者の形をとることが多いような気がする。ひいては、調停者が聖性を身にまとうのと並行して、政治的なものが穢れをひきうけることになってしまったのではないだろうか。多分、穢れを今の言葉に翻訳すると「かっこわるい」だ。

そういう、政治的なものに穢れ、かっこわるさを感じる日本的なメンタリティとは別に、社会的、政治的なものから距離をおきたいという志向がある(デタッチメントと呼ばれる)。どの程度普遍的なものかわからないが、青年期によくみられるものとされているようだ。西洋的な文化では、政治的に行動できることが大人の証としてみられているような気がする。

カート・ヴォネガットに『母なる夜』という作品がある。第二次大戦中、アメリカのスパイとして情報を送りながら、ナチスの対米宣伝放送に協力していたキャンベルという男の物語だ。彼は政治的に完全に無垢だった。ただ、自分と家族のささやかな幸せを守りたいだけだったのに、否応ない歴史の流れに巻き込まれてしまったのだ。ぼくは早川文庫版で読んだのだが、巻末に訳者がつけた解説で、主人公の行為を非難しているのを読んで、憤慨したものだった。訳者の非難は、政治的に行動できないこと、いわば未成熟であることに対してのものだったと思う。

ぼくはその当時、主人公が未成熟であることを援護したかったし、それは今でも変わらない。だが、『母なる夜』の中では結局悲劇がもたらされたように、無垢でありつづけることが可能かどうかについては疑問をもつようになっている。明日はそのことを書く。