無垢ということ(3)

政治的に無垢でいることが可能なのかと疑問を投げかけて、昨日は筆をおいた。その続き。

政治的なものから離れるために政治的であることを非難したり排除したりすることは、それ自体が政治的な発言・行動とみなされてしまう。たとえば糸井重里さんが忌野清志郎さんを非難したコメントも十分すぎるほど政治的に読み取られただろう。政治的であることを避けようとして、パンク版君が代を発売しなかったレコード会社の行為や、『あこがれの北朝鮮』をカットしたラジオ局の行為も、その建前と反して政治的なものになってしまっている。

仮に、政治的なことに沈黙を守っていても、その沈黙という行為が現状追認という意味で政治的と受け取られてしまう場合もある。

政治的にとるのは受け手の責任で、もとの発言・行動にそういう意図はなかったと抗議してみても、単なる弁解にしかならない。『母なる夜』の中にあるように「われわれが表向き装っているものこそ、われわれの実体に他ならない。だから、われわれはなにのふりをするか、あらかじめ慎重に考えなくてはならない」のだ。

また、政治的なものと対極にある直感や感性というものに政治性が隠されていないという保障はどこにもない。逆にこれら無垢なものほど、歴史的に積み重なったきた政治的なエッセンスを多く含んでいる可能性がある。無垢とされる子供たちが、まわりの世界のあちこちにただよう差別という政治性を直感的に理解して、いじめをはじめてしまうのが一例だし、靖国参拝をする小泉さんの「真心」も政治性をふんだんに含んでいる。

まとめると、政治的なものは、人間のあらゆる活動の中に入り込んでいて、無垢であり続けようとしても、そこから逃れることはできない。無垢な心は、無意識的な政治性に汚されてしまう可能性が高いし、無垢な言葉・行動は政治的な香りづけをされてしまう。

でも、こういう政治性はとても息苦しいものだ。すべてを正しいことと正しくないことに分類することを強要されたり、想像力の及ぶ範囲を限定させられたりする。デタッチメントはそういう息苦しさから脱して自由を求めることをいうのだと思う。デタッチメントは逃避ではなく、デタッチしてこそ見えるものがあり、それはいつの日かのコミットのためのものだ。

政治的なものから逃げ出すことはできない。でも、それがそこにあることを認めた上で、それとは別の意味を見出したり作り出したりして、結果として政治的なものからの自由度を確保することはできるような気がする。

そのためには政治的なものを遠ざけるのではなく、賛成でも反対でもどちらであっても受容していく(タブー視しない)という姿勢が必要であり、政治性を意識しながら、政治的になることを恐れずに、考え、行動していくことだ。それができることが無垢から脱したほんとうの成熟ということのような気がする。