無垢ということ(1)

ちょっと長い話になる。例によって今書こうとしていることが最後までちゃんと書き続けられるかわからないが、とにかくはじめてみることにする。

芸能ネタは興味がないのでほとんど何も知らない。といってもこれからとっかかりとして書くことが芸能ネタといえるかどうか微妙なところだが。というような前置きはやめてさっさと書いてしまうと、忌野清志郎さんのことだ。4月22日のアースデーのコンサートで予定になかった『あこがれの北朝鮮』という歌を歌って、ラジオの生放送からカットされてしまったという話だ(ぼくが知ったのはHIMANISM(http://www.geocities.co.jp/Berkeley/6142/)というサイトの4月25日の日記(http://www.geocities.co.jp/Berkeley/6142/diary-r.html#25)から。詳しくはそちらを見てください)。

歌そのものは、ビートルズの“Back in the U.S.S.R”のようなもので、別に歌詞の中に直接的なメッセージがあるわけでもないのだが、日本のメディアは神経症的にこういうものに敏感で、ふたをするという対応しかできない。忌野清志郎さんはそういう息苦しさに我慢できなかったのだろう。今この時期に北朝鮮というタイトルのつく歌を歌ったその勇気をたたえたい。

さて、忌野清志郎さんのそういう行動を好まない人たちもいる。多分糸井重里さんもそのひとりだ。1999年、君が代をパンクで演奏した曲を含むアルバムが発売中止になったときに、「忌野清志郎はすきなんだけど」(http://www.1101.com/darling_column/archive/1_0830.html)というコラムを書いている。(この君が代の件に関していえば、どのように編曲しようがそこに政治性などありようがないと思う。音楽に政治性があるのではなく聴く人間の側に政治性があるのだ)。

おそらく糸井さんは、大好きな忌野さんがもっとも大事であるはずの音楽性ということをないがしろにして、底が浅い(と思える)政治的メッセージを優先させてしまうところに音楽家としての堕落を見て、我慢できなかったのだろう。

そこには、政治的であることにより、本来の純粋で無垢なものから隔たっていってしまうというような考え方、感じ方があるような気がする。これは糸井さんだけでなく日本の人に多くあるメンタリティのように思う。ぼくも例外ではない。

そのことについて何回かにわけて書いてみたいと思う。