殺す理由

家から駅の途中にごくふつうの民家があるのだが、しばらく前まで、窓のところに、「ここで夜騒いでゴミを捨てるバカ。今度捨てたら殺す。○○」と署名入りの殺人予告が書いてあった。それが最近「この空き缶入れに紙コップを入れたバカ。今度入れたら殺す。○○」というものにバージョンアップされていた。人を殺すにはたくさんの理由がある。

BLOG新保守主義など

死刑!

イラク戦争がはじまるときに、「人を殺してはいけない理由」というやつを基礎しようとしてみたが、当為は事実から導き出せないという古典的な法則に今さらのように気づくことができただけだった。「人を殺してはいけない」というのは文章の結論の位置にではなく、前提の位置にあるべき言葉なのだろう。それは必ずしも当たり前のことではなく、その前提を受け入れるかどうかは個人個人の倫理観に委ねられている。

死刑という制度をこの文脈の中に位置づけた場合、次のような意味をもってくる。すなわち「世の中には殺していい人間と殺してはいけない人間がいる(そしてそれを適切に判断できる)」。でも、これは、殺人犯やテロリストに犯行の理由を尋ねたときに返ってきそうな言葉でもある。「世の中には殺していい人間と殺してはいけない人間がいる。わたしは殺していい方の人間を殺したんだ」とかね。

もちろん、死刑という制度の方にはちゃんと裁判という手続きがあるんだけど、最終的に死刑という判決が出されたときに、その理由を裁判官に問うたとすれば、一応判例を引き合いに出すだろうが、結局は「世の中には殺していい人間と殺してはいけない人間がいる(わたしは被告が殺していい方の人間だと判断した)」ということにしかならないと思う。(社会契約論的に国家が国民の生殺与奪権をにぎっているのはどうよという議論もあるが、別の機会に譲る)。

死刑制度を前提にすると、結局のところ、「人を殺してはいけない」という格率は成立しなくて、新たに以下の格率を掲げなくてはいけない。たぶん、ほとんどすべての人が同意してくれるはずだ、殺人犯やテロリストを含めて。

「殺してはいけない人を殺してはいけない」。

意味のない注釈

読み返してみたら微妙にわかりにくいと思うので、自分にむけての注釈。「殺してはいけない人を殺してはいけない」というのに賛同しているわけではなく、当然そんなトートロジーありえねえだろということです。

いまや偽善こそがかっこいい

古典的な右傾化批判は意味をもたないというのはその通りだけど、小田嶋氏の「反抗の象徴としての右傾化」論もちょっとはずしているような気がする。「現在の「ウヨ」と「サヨ」を分けているのは(中略)「偽善」というキーワードだ」というのはいいのだが、「ウヨ」の人たちは「偽善」という権威に反抗しようとしているわけではなく、むしろ、自分を傷つけることなくメタで安全な位置にたつために「偽善」という恰好の攻撃対象を利用しているんじゃないかと思う。

いずれにせよ「偽善」が広範囲で嫌悪されているというのは事実だと思うけど、では「偽善」でない善にどんなものがあるかというと、宗教的(「愛」とよばれるものも含みます)な自己犠牲くらいしか見あたらない。実際、「ウヨ」の人たちの一部はそういうものをありがたがっている。

もともと今「偽善」とよばれているものは、そういう窮屈な自己犠牲のおしつけから身を守るために時間をかけて育まれてきた価値観だった。その価値観を広めようとする運動や言論の甲斐あって、その価値観が社会の大部分に広がり、おしつけも少なくとも表面上は影をひそめるようになってくる。するとその運動や言論を、意味がないかあるいはうざいものに感じる人々がでてくる。そうして「偽善」とよばれてしまうのだ。小田嶋氏はこういうジレンマをちゃんととらえていて、そこは鋭いと思う。

これからはもう「偽善」という呼び名を払拭しようなどと考えないで、「偽善」のまま、偽善こそがかっこいいという方向にもっていったほうがいいのではないだろうか。いきなり話題が変わってなんだが、ホワイトバンドは「偽善」をかっこいいものに結びつけようとする点でとても秀逸な製品だった。ただその「偽善」さがちょっと過激すぎて、あちこちから非難を受けているようではあるけれど、これからも「偽善」の王道を突っ走ってほしいと思う。「偽善」以外に善などないのだから。