いまや偽善こそがかっこいい

古典的な右傾化批判は意味をもたないというのはその通りだけど、小田嶋氏の「反抗の象徴としての右傾化」論もちょっとはずしているような気がする。「現在の「ウヨ」と「サヨ」を分けているのは(中略)「偽善」というキーワードだ」というのはいいのだが、「ウヨ」の人たちは「偽善」という権威に反抗しようとしているわけではなく、むしろ、自分を傷つけることなくメタで安全な位置にたつために「偽善」という恰好の攻撃対象を利用しているんじゃないかと思う。

いずれにせよ「偽善」が広範囲で嫌悪されているというのは事実だと思うけど、では「偽善」でない善にどんなものがあるかというと、宗教的(「愛」とよばれるものも含みます)な自己犠牲くらいしか見あたらない。実際、「ウヨ」の人たちの一部はそういうものをありがたがっている。

もともと今「偽善」とよばれているものは、そういう窮屈な自己犠牲のおしつけから身を守るために時間をかけて育まれてきた価値観だった。その価値観を広めようとする運動や言論の甲斐あって、その価値観が社会の大部分に広がり、おしつけも少なくとも表面上は影をひそめるようになってくる。するとその運動や言論を、意味がないかあるいはうざいものに感じる人々がでてくる。そうして「偽善」とよばれてしまうのだ。小田嶋氏はこういうジレンマをちゃんととらえていて、そこは鋭いと思う。

これからはもう「偽善」という呼び名を払拭しようなどと考えないで、「偽善」のまま、偽善こそがかっこいいという方向にもっていったほうがいいのではないだろうか。いきなり話題が変わってなんだが、ホワイトバンドは「偽善」をかっこいいものに結びつけようとする点でとても秀逸な製品だった。ただその「偽善」さがちょっと過激すぎて、あちこちから非難を受けているようではあるけれど、これからも「偽善」の王道を突っ走ってほしいと思う。「偽善」以外に善などないのだから。