死刑!

イラク戦争がはじまるときに、「人を殺してはいけない理由」というやつを基礎しようとしてみたが、当為は事実から導き出せないという古典的な法則に今さらのように気づくことができただけだった。「人を殺してはいけない」というのは文章の結論の位置にではなく、前提の位置にあるべき言葉なのだろう。それは必ずしも当たり前のことではなく、その前提を受け入れるかどうかは個人個人の倫理観に委ねられている。

死刑という制度をこの文脈の中に位置づけた場合、次のような意味をもってくる。すなわち「世の中には殺していい人間と殺してはいけない人間がいる(そしてそれを適切に判断できる)」。でも、これは、殺人犯やテロリストに犯行の理由を尋ねたときに返ってきそうな言葉でもある。「世の中には殺していい人間と殺してはいけない人間がいる。わたしは殺していい方の人間を殺したんだ」とかね。

もちろん、死刑という制度の方にはちゃんと裁判という手続きがあるんだけど、最終的に死刑という判決が出されたときに、その理由を裁判官に問うたとすれば、一応判例を引き合いに出すだろうが、結局は「世の中には殺していい人間と殺してはいけない人間がいる(わたしは被告が殺していい方の人間だと判断した)」ということにしかならないと思う。(社会契約論的に国家が国民の生殺与奪権をにぎっているのはどうよという議論もあるが、別の機会に譲る)。

死刑制度を前提にすると、結局のところ、「人を殺してはいけない」という格率は成立しなくて、新たに以下の格率を掲げなくてはいけない。たぶん、ほとんどすべての人が同意してくれるはずだ、殺人犯やテロリストを含めて。

「殺してはいけない人を殺してはいけない」。

意味のない注釈

読み返してみたら微妙にわかりにくいと思うので、自分にむけての注釈。「殺してはいけない人を殺してはいけない」というのに賛同しているわけではなく、当然そんなトートロジーありえねえだろということです。