コナトゥス
もう少し続きます。エチカを読み終えたばかりで影響を受けやすい体質のため、かなりスピノザっています。
- 暴力といっていいような過酷な状況に置かれた人もいると思いますが、ある特定の主体的な意志が暴力をふるっているのではなく、複雑に絡み合った社会システムの歪みがそこに端的にあらわれているわけです。暴力をふるう主体がいるのならそれを排除すればすむ話ですが、そうではないわけです。それに単純な暴力で挑むのは水車に突進するドンキホーテのようなものではないでしょうか?
- ある暴力は適切で別の暴力が不適切という区分けはやはりできないと思います。規模でもできそうにないし、暴力をふるう主体のおかれている立場ということではそれこそ恣意的になってしまいます。正しい人のふるう暴力は正しいとしかいえないでしょう。
- 内戦で圧倒的に弱い立場にたっている側に武器を供与するのは正しいのでしょうか?ぼくはそうは考えません。
- で、正当防衛的な場合をどう考えるかですが、これはスピノザ風に暴力の悪よりも、自分の身を守る善の方が優先すると考えればいいと思います。かといって暴力の悪が消えるわけではないですが。ジャン・バルジャンがパンを盗んだときのように緊急避難的に悪事をおこなう場合は、悪事そのものを肯定する必要はまったくなく、生きようとする力(コナトゥス)を肯定するべきなのではないでしょうか。だからやむを得ず暴力をふるう場合にそれを肯定する必要などないわけです。肯定することで別の意味が生まれてしまいます。
- とあえていろいろつっかかってみましたが、猿虎さんはさまざまな物事が暴力で解決できると思っているわけではないことは理解しています。ただ、人をのろわば穴二つというように、非暴力というせっかく築いた砦に開けた小さな穴は必ず二つになって、向こう側からはねかえってくると思います。