誤配と誤解


そして、あえて言うなら、「嫌われている日本」をことさらに強調するいやらしい日本人こそ、日本の恥だと思う。彼らがすぐに使いたがる「反日」というレッテルは、彼らのためにこそ存在しているのである。日本のすべてを否定するのも、日本のすべてが否定されているかのように言って構ってください誉めてくださいと媚びるのも、どちらも「反日」であり、日本の恥ではないか、と思うのである。

松永さんのいうことは基本的にその通りであるし、抽象的にならずにわかりやすくまとめているとも思うのだが、つけられているコメントをみると、もともと同意見の人が賛意を示し、反対の人が反論しているだけで、結果的に分断が広がっているように思えてきて、むなしさや徒労感のようなものを感じてしまったりもする。

ちょっとメタな視点からながめて気付いたことをいくつか書いてみる。

まずは誤配の問題。どんな文章でもそうだが、そのメッセージを届けたい人のもとにうまく届くことは少なくて、受け手の範囲は多少ずれてしまう。今回の場合は実際の批判対象(いわゆる嫌韓厨、嫌中厨)だけでなくもっと広い層に批判として届いてしまって、彼らからの反論を誘っていた。もともと彼らにあてたメッセージではないので、もちろん議論はかみあわなくなる。

ただ、彼らの反論は単なる嫌韓厨、嫌中厨に比べればまだ筋道がたっていて、韓国や中国で繰り広げられている反日本的行動を、日本のマスコミはほとんどとりあげようとしないから、彼らが「あえて」問題にしているのだという。それに対して今回松永さんが書かれた批判は、もう十分すぎるほど嫌韓厨、嫌中厨が増殖していて排他的な雰囲気が蔓延し始めてるという現状認識にたっている。これはつまり文脈の違いだと思う。同じ文章が文脈によって別の意味を持つように、文脈を共有しない相手に投げかけられたメッセージは必ず誤解されてしまう。

コミュニケーションというのは、主体が別の主体に対して文字通り主体的に発するメッセージというより、伝言ゲームのようにほかから伝えられたメッセージを適宜編集しながら中継していくことなのだと思う。だから誰もが、自分あてでないメッセージを受け取り、それを誤って解釈・編集して、誤った宛先に届けてしまう。こうしてそのままにしておけば、個々の文脈はどんどんずれていく。そのずれはときによって愚かな陰謀論をうんでしまう。たとえば〜新聞は〜国の権益を代表して報道している、というような。

価値相対主義というのは、こういう文脈のずれを肯定することにしかならないと思う。相対もなにも価値観などというものは主体に内在するものではなく、文脈が異なる他者との関係から生まれてくるものなのに。