キムチに平和を

「戦争反対」というのはごくあたりまえのことで、特に口にだしていうようなことではないと思っていった。戦争で自分や周りの人間の生命が危険にさらされるのは誰もがいやなはずだからだ。

でも、好き嫌いは相対的なものだから、たとえばキムチを食べるくらいならまだ戦争のほうがいいと思う人がいても不思議はない。まず、その人が、テレビのワイドショーなどで、わたしはキムチを食べたせいでこんなひどい目にあいましたと涙ながらに語る。それに賛同して、わたしも、おれもと語る人が出てきたところで、今度は専門家が、キムチには発がん性物質が含まれていて健康に悪影響を及ぼしますといって、キムチに対する恐怖と、キムチを嫌うことの正当性を植えつける。もちろん、その間もテレビはキムチ被害者の映像を流し続けて、涙を誘う。こうして、誰も戦争がやりたいわけではないけど、仕方ないという空気が作られていく。

以前も書いたけど、日本の人には無垢なものをあがめる傾向がある。小泉さんが靖国神社に参拝するときに「真心」という言葉を使ったのがその典型的な例だ。キムチがきらいであるというのも無垢な真心にちがいない。戦争への萌芽はそんな真心を種として生まれる。

日本では、平和運動もまた真心だ。世界全体の無垢さを前提として、自分たちの無垢さを肯定してゆく。でもそれは、いざというとき、変幻自在の無垢というものに呑まれてしまい、戦争を防ぐ役には立たないような気がしている。世界のどこかで戦火の絶えた日はないし、日本の平和も偶然の産物で、憲法の前文の理想は全然達成されていない。今ある平和をただ何もせずに守ろうとするのは憲法の主旨にも反している。憲法前文では、「われらは,全世界の国民が,ひとしく恐怖と欠乏から免かれ,平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」とあり、「日本国民は,国家の名誉にかけ,全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成すること」を求められているのだ。

そのためには権謀術数を弄することをためらってはいけないだろう。たとえばキムチに生クリームをかけて食べやすくするのもひとつの方法なのだ。

無垢な戦争より不純な平和を!