Dismay Land

白装束の一団が移動を始めたらしい。彼らに対して何ら同情も共感も感じないが、そういうわけのわからない集団がそばにいるということは、異質なものとの対話や共存をするための練習になりはしないかと思う。もちろんオウム真理教という悪夢を忘れることはできないので、恐怖という反応はあたりまえのことなのだが。でも、あれもオウムという集団が自分たちと異質なものを排除しようとして起きた犯罪だった。

人がなぜああいうカルト集団にやすやすとひっかかってしまうのか不思議に思っていた。いかさまなものはみんなどこかしら似ていて、類型化できるものだと思う。オウムもその類型にぴたりとあてはまる。おそらく、その類型に出会うことのないまま、社会の矛盾、不必要なまでの複雑さに疑問をもって、どこか別の場所にほんものの世界があるかもしれないと思ったときに、鳥の雛が卵から出て最初に見たものを親だと思い込むように、最初に出会った異質なものを「ほんもの」だと思い込んでしまうのだろう。実際カルトが提示する世界は、愚かしいほど単純で、単純であるがゆえに矛盾がないものだ。

やはり、早いうちにカルトといういかさまの存在を知る機会を設けたほうがいいのではないだろうか。カルトを完全に阻害して見えないところに隠すのではなく、どこか観察できるところにおいておく。たとえばテーマパークのようなものが作れたら面白い。その名も、“Dismay Land”、幻滅の国だ。

そこにカルトの人たちを住まわせて、いつでもその愚かさを観察できるようにしておく。そこのまわりには塀はない。なぜなら、ある意味、ぼくたちも“Dismay Land”の住人だから。