歴史≠ヒステリー

珍しくというか生まれてはじめてニューズウィークを買った。シュワちゃんが表紙だったからでなく、「拉致ヒステリーの落とし穴」という記事に興味をひかれたからだ。

読んでみると、記事の内容に特に新味はなかった。「日本の強硬姿勢はなんの成果ももたらさず、むしろ日本がこの地域に平和をもたらす役目を務めようとする上で障害になって」いて、強硬路線を突っ走って日本だけが経済制裁を実施しても効果は疑問でかえって東アジアの軍事的緊張を高めて経済を破綻させるだけであり、ゆくゆくは核と拉致の政策の優先順位を見直さないと事態は動き出さないといった、当然のわかりきったことばかりが書いてあった。でも、その明々白々なことが日本のマスコミのどこでも報道されないという現状がある。

世論とマスコミが手に手をとりあって、寄り道や後戻りをゆるさず同じ方向へずんずん進んでゆく様子は、多分先の大戦のときがそうだったんだろうと思わせる。人々の間に生まれた被害者意識と義憤というそれ自身は自然な感情を、マスコミがその商品価値にとびついて、大量にいっせいに撒き散らす。それは、その感情を共有しないのはおかしいというような風潮を作り出し、やがてはマスコミ自身もその風潮にしばられて、それに反するような報道ができなくなる。

あの無謀な戦争は軍部の独走だけで片付けられるものではなく、やはり日本人とよばれる人たちの国民性に原因があったのだというのが今回のことで再確認できた。あのときの反省はぜんぜん生かされてないようだ。

そもそも、一時帰国した拉致被害者の人たちを戻さないとした決定にしても、「生存しているとされる拉致被害者の人たちだけを確実にとりもどして、その家族や死亡が伝えられている拉致被害者の人はあきらめるとはいわないまでも優先度をさげる。しかも北朝鮮に『約束をやぶった』という絶好の口実を与える」と「交渉の道具に使われてしまう可能性があるが、家族を含めて全員の帰国をめざす」という二つの選択肢から前者を選んだということなのに(その選択の是非はおく)、拉致被害者を二度と敵の手に引き渡さないというような感情的な面ばかりが強調されてしまう。

安部晋三とかいう人にしても、少なくとも今のところ、彼のしてきたことは拉致問題を解決するより一層難しくする方向に働いているというのに、なぜか国民的人気があるというわけのわからない現象が発生している。

「国民」といわれている人は多分誰も解決なんか求めてはいないんだろう。虐げられた人が全員死んでから桃太郎侍あるいは暴れん坊将軍が、「悪いやつら」をめったぎりにするシーンがみたいだけなのではないかと思ってしまう。

そろそろ、どうすれば拉致問題を解決できるかということを冷静に考えるべきだろう。もういいかげん不条理な時代劇はうんざりだ。

(ちょうど、宮台真司氏もこの件について書かれているようです。→ http://www.miyadai.com/message/?msg_date=20031017