靖国という場所

イラク戦争のときは大義がないのに「国益」を理由に賛成しておきながら、「国益」をある程度損なうことを覚悟してまで靖国に参拝するという「義」を貫こうとするのは、ある意味バランス感覚(アメリカの機嫌は損ねてはいけないけれど中国・韓国はどうにかなるという判断)なのかもしれないけど、靖国はそうまでしていく場所なのかという疑念がつきまとう。

東京都千代田区九段北にある元別格官幣社明治維新およびそれ以後に戦争など国事に殉じた者250余万の霊を合祀。1879年(明治12)招魂社を改称。
広辞苑第五版より)

「戦争など国事に殉じた者」とあるように、戦没者の中でも、祀られているのは基本的に戦死した軍人のみで、空襲で死んだ人や軍人でも病死した人などは祀られていない(例外はあるが)。つまりは死に方に優劣をつけて、「尊い」死に方をした人だけが祀られている。

もともと招魂社と呼ばれたことでもわかるように、勇ましい軍人の中でも「尊い」死に方をした人たちの魂を招いて、国の守り神になってもらおうというのが、靖国神社の主旨だ。

その主旨からすれば、国の安全(平和にこしたことはないが戦争になった場合でも負けないこと)を願う場所としてはわりといい線をいっているのかも知れないが、戦没者の慰霊や平和を祈念する場所としては、まったく適していない。

まあ、小泉首相は、いつものようにその言葉と裏腹に、内心ではそういう意味の安全保障を祈願しているかも知れず、それなら不整合はないともいえるが、でも祈願されるほうも、死にたくて死んだわけではない人が多数いるだろうし、死んでからも国に尽くさなければいけないなんて、いい迷惑だと思うかもしれない。そもそも、あんな場所に祀られるより生きていたかっただろう。なんだか、生命を捧げさせられた上に、さらに死まで利用されるなんて、祀られている人たちはほんとうにかわいそうだ。

靖国はそういう場所だ。

参考: http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3776/yasukuni.html