レーザーのように鋭く指摘

紫外線に近い波長(700nm〜1μm程度)の光線。

レーザーマウスについて調べていたら発見。

レーザーというのは指向性が高くて単一波長、単一位相の光線ということをまずいわなくてはいけなくて、波長だけの話ではない。700nm〜1μmというのは正しいのだけど、その波長の光は紫外線じゃなくて赤外線だ。

波長が1μm以上のものはメーザーというらしい。

それにしても電磁波は多種多彩だ。短波なんて短いといいながら波長10m〜100m。電子レンジに使われるのも10cm前後。それに比べると、人間の目に見える光って、相当波長が短い(380nm〜800nm)。なんだかとても危険なものに思えてきた。

いい加減

構造計算書の偽造問題についての素朴な疑問。

建築のことがまるでわからないのでこんなことを思ってしまうのかも知れないけど、だいたいこれくらいで耐震OKかなと思えた段階で、構造計算書の作成を依頼するんじゃないのだろうか?今回もぎりぎりアウトというのがいくつも見つかったというのならわかるのだが、てんでお話にならない、地震がなくても経年変化で崩壊するような建物が建ってしまったのはなぜなのだろう?気まぐれに設計して依頼してたら、時間と費用がかかってしようがない気がするのだが。

耐震性というのはカオス系で、ほんのささいな柱の有無が重大な違いを生んでしまうのかもしれないけど。

倫理と処世術

誤解を恐れずに書いてしまうと、他者の価値観を無条件に尊重すべきというのは、倫理の名に値するものではなく、処世術に過ぎないと思う。確かに価値観の対立が無意味な争いを生んできたのは事実で、それを避けるというのは大いなる知恵だと思うのだが、でも、それぞれが自分の領域に閉じこもって信じるものをそのまま好き勝手に信じ続ければいいというのは、とてもペシミスティックな世界だ。

人は変わりうる。山の澄んだ空気の中で今まで一度も見たこともないものを見て、かいだことのない匂いをかぎ、感じたことのない喜びを感じうる、そんな生き物だと思いたい。

そこに山があるから

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20051109/p1#c

「文明開化(civilization)みたいな運動はあくまで市民社会の利益を享受しうる政治的領域(世俗的な空間)で推進するべきであり、市民的な利益を享受する領域を拡大すべく、他者の私的領域に分け入り、他者の良心のあり方について圧迫・干渉するような活動は、当事者間の対立を煽り、あまりにも宗教的不寛容に満ちているといわざるをえない」という主張には基本的に賛成だし、今回の行動は、彼らの目的がなんらかの社会的コンセンサスを得ていくことにあるとすれば、的はずれだと思う。彼らには登るべき正当な理由なんてないわけだ。

ただ、「自由」というのは基本的には何をしてもいいけど正当な理由があればそれを制限できるということで、今回正当な理由を求められるのは村人の側だ。その理由としてあげられるのが、id:swan_slabさんのおっしゃる「私的領域」ということだと思う。だが、どこまでが私的領域といえるかという点については議論の余地がある。

もっとも狭くとれば人間の身体そのものだが、私的所有権の及ぶ範囲が私的領域と考えるのが穏当なところだろう。そうすると、国立公園の中が私的領域といえるのかいえば、一般的にはいえない。ただ、たとえば、国立公園に隣接する場所に住んでいる人たちが、国立公園の敷地といえども夜中に自分の家のそばで騒いでほしくないという主張は正当だし、その意味から、公的な土地であっても、100%ではないがある程度私的な権利が認められると思う。

村人たちの立場からいえば、もともと宗教の聖地であるべき私的な土地が手続き上の理由で国立公園に組み込まれてしまっているということになるのだろう。そういう場合に、そこでその宗教の戒律に反することをしないでほしいというのを、非信者の人にお願いするのはありだし、それは尊重されるべきだろう。ただ、それが受け入れてもらえるかどうかは、その戒律しだいだ。「唾をはくな」とか「神を冒涜する言葉をはくな」とか「姦淫をするな」ならおそらく受けいれてもらえる可能性が高い。「弁当持込禁止」というディズニールールでもかなり厳しくて、「立入禁止」になってしまうと、反発して破ろうという人がでてくる。さらに「女性(と思われる人)」、「ハンセン病エイズ患者」、「左利き」(「女性」以外は単なるあり得べき例を挙げただけ)など特定の属性をもった人だけ「立入禁止」というのは、合理性が疑われるので(宗教の戒律といえども合理性は必要なのだ)なおさら受け入れてもらいにくくなってしまう。私的領域としての権利が認められるとはいっても、公的な場所である以上そこで要求できるのはある穏当な範囲だけなのだ。「女人禁制」は穏当な範囲を越えているような気がする。信仰は妨害してはいけないと思うけど、宗教だからといって特別扱いをして守ってあげるものでもない。

村人の側に正しさがないとはいえ、正しさというのはコミュニケーショナルにしか存在し得ないものだと思うので、今回抜け駆けで登った3人の行動に正しさがあるわけではない。とはいえ、彼らが村人以外の誰かから非難されるようなことをしたわけではなく、彼らを非難できるのは当事者である村人たちだけだ。

結局のところ、そこに山がある以上、男であれ女であれ、人は登ってしまうんだと思う。ただそれだけのことだ。

ワンポイント靖国

靖国についてそのうち書くといいながら、約束を果たせていないので、つなぎに、そのとき触れようと思っていたネタを先出ししておく。

上のリンク先は日本の過去の侵略行為に対する謝罪を持ち出すのが中韓外交カードのひとつで、それがもう無効なのだということを伝えるために象徴的に小泉首相靖国に参拝しているのではないかという趣旨のことを書いている。

確かに外交カードのひとつなんだろうし、そろそろ無効だというのもわからなくないが、それを伝えるのに靖国を使うのは無駄な遠回りどころか逆効果以外のなにものでもないと思う。そういうことはわざわざ表明するものではなく個々の外交交渉の中で既成事実にしていくものだろうし、仮に伝えるとしてもいちばんいいのは「無効です」「ああ、そうですか」と理解してくれることだろうから、火に油を注ぐことがわかっている靖国を持ち出す理由はないだろう。

靖国外交問題として持ち上がったのは1978年のA級戦犯合祀以降で、それ以前は首相が参拝しても中国、韓国は黙認していたわけであり、靖国に関する彼らの批判の重点は過去の侵略行為そのものではなく、その歴史認識にあるのは明らかだ(個人的にはA級戦犯以外に靖国はいくつかの問題があってそちらの方が重要だと思うけど、それは本論にとっておく)。靖国参拝は直接的には日中戦争から太平洋戦争につながるあたりの歴史認識を変更するということを伝えていることになるので、それで過去の侵略行為に関する謝罪外交(というものがあったとして)の終焉を告げているつもりだったら、とんだ見当違いだろう。

この議論でおもしろいと思うのは、一見(少なくとも外交戦略という面からは)非合理であるような行動から合理的なものを読み取ろうとしているところで、そういえば内田樹さんも別の角度から合理的な読みをしようとしていた。

いろいろな人にさまざまな読みを誘うというのはそれだけ参拝がミステリアスな行為だからだろう。神秘の国日本。わかるかなぁ〜!!、わかんねぇだろうなぁ!!